2017 古尾八幡宮ゆかりの地を訪ねる
2017・ 2・11

南方八幡宮 由緒
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孝謙天皇天平勝宝3年(751年)厚東武綱公豊前国宇佐八幡宮の御分霊を迎え社を建て賀保庄(現在の佐山より西岐波迄)の守り神としておまつりした。初めは古尾(東岐波)にしたが天福元年(1233年)大内一五世多々良弘貞朝臣の時、南北に分ち、南は吉沢に社を建て南の宮とし、北は須田村に分ちて北の宮とした。その後応永十五年(1508年)祝融の災い(火災)に罹り本社,末社、神宝等悉く消失したが同十七年(1510年)当国の守護大内左京太夫盛見朝臣の命を奉じ再建神殿、幣殿、舞殿若宮まで造営を終えた。しかし楼門 尚欠けたのを遺憾とし、永禄一二年(1569年)造営を始め元亀二年(1571年)に完成した。再来年月を経て応長十年頃社頭廃頽頻年疫病流行し、五穀熟せず村人大いに恐怖し、社殿造修の事、国庁に謀り寛永十四年(1624年)復旧をえた。現在の社殿概ね其の当時の建築である。 楼門は享保五年(宝暦年中とも云う 1720年)の再建と伝えてられている 本宮は昔、南北分社以来、永年岐波村一円の氏神であったが、明治の中頃、岐波村二ケ村に分離し、現在は西岐波地区の氏神である。


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