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掲示板の内容は 勝坂砲台跡 文久3年(1863年)萩藩は新しく政治の中心と定めた山口を外敵から防衛するため、勝坂に関門を設置し、合わせて東西両側の高地に砲台を築きました。砲台に対しては平日から修理や補修を怠らず、常に弾丸を備えるよう注意する事が指示されていました。この付近の地は明治3年(1870)の脱隊騒動では最大の激戦地の一つとなりました。勝坂でも同年2月、右田毛利氏の兵が、徳山藩、岩国藩の兵と共に脱退兵と激しく戦っています。その後、西側の砲台は早い時期に撤去されたようでその跡をとどめませんが、東側の砲台跡は現在も石垣などが残っています。 |
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砲台跡の掲示板 | 掲示板の直ぐ上の石垣がそうです。 |
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ここで記念写真をとりました。ここから萩往還を通り、萩駅まで歩きます。 | 萩往還についての掲示板です。 |
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萩往還を三田尻方面に向けて歩きます。 | 剣神社の傍を通り、東に向かいます。 | 梅の花が綺麗に咲いています。疲れてきた気持ちを元気づけてくれます。 |
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萩往還の案内の前で暫しの休憩です | 佐波川の土手に出て来ました。古戦場の跡の掲示板に見入っています。 | 佐波川の本橋を渡るため、古戦場から下流側に移動します。ここには舟橋があった所です。 |
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本橋を渡って東側に行きます。 | 橋を渡った所から少し南側に入り、南東方向に歩を進めます。 | 今市の交差点です。ここで西から来た旧山陽道と合流し東側に向きを変えます。 |
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山陽道と萩往還の道を東に行きます。 | 一度、山陽道から離れ、山頭火の生家跡に寄りました。 | 狭い路地を通ります。 |
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狭い所をぐるぐる回りますが、こんな所を良くコースにしたものです。ご苦労様です。 | 再び山陽道に出て来ました。定念寺前を通過します。 | 防府の天満宮に戻ってきました。ここで昼食となります。 |