萩往還ひとり歩る記 萩市唐樋札場⇔旭村佐々並
 その1
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  萩往還のスタート地点
ここが萩往還の起点で、ひとり歩るきのスタート地点です。この地点の地図が右の地図です。萩バスセンターから、道路沿いに北側に20m位、歩いたところにある交差点を越えた角にあります。立札、案内板が無ければ街角のベンチ位にしかみえません。案内板には萩往還に付いて記載されており、その全文が下の文章です。又、ここは唐樋の札場跡で、そのことについて、立札に記載されており、その全文を下記に記載します。

萩往還はこの地点から真南に萩駅まで真っ直ぐな道です。
        さあ-、スタートです。
  歴史の道    萩 往 還 (案内板より転載)
萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と三田尻(防府市)御船倉を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。行程は12里(53Km)ですが、政治的に重要な道であったため、道幅2間(約4m)の大道として位置付けられました。そのため、利用する人も多く、山口県の歴史にとって大変意義のある道といえます。しかし、中国山脈を最短距離でこえるこのルートには、険しい坂や峠が多く、道行く人にとっては苦労の多い旅であったと思われます。
途中には、石畳が敷かれ、御駕籠建場や御茶屋が設けられ、復元された建物もあります。遠い江戸につながるこの道を、武士や庶民そして憂国の志を抱いた維新の志士たちはどんな思いで歩いたことでしょう。歴史の道を踏み締めて、その鼓動を確かめながら、ゆっくりと歩を進めてください。
             文化庁  山口県教育委員会  萩市
 
  唐樋札場跡   (立札より転載)

藩政時代の唐樋は城下町の中心地として札場(御高札場)があり、罪人の晒し(サラシ)も行った所である。また防長両国の諸所に通ずる道の基点として重要視され、ここから里程を数えた。慶安古図を見ると、三角州北東の浮島・渡り口辺りから大きく、南に入江が入り込み、泥地の芦原を形成しているのがよく分かる。満潮時には三角州中央付近まで浸水し、その逆流を止めるために作った水門が唐樋であり、町名になった。幕末(嘉永年間)の図によると堆積と埋立てにより浮島は完全に三角州の一部となり、川中の雁島も対岸の一部に吸収されて幅広かった大川も狭くなり、地形が変貌して城下町の完成された様子がよくわかる。                       
                 
 橋本川
スタートして1kmのところに流れているのが橋本川です。
1.95kmにあるJR萩駅です。ここから暫く萩往還は開発等で不明になりますが、仮の道が設定してあります。

  スタートして1.64kmの地点です。
  
大木戸跡・金谷天神社  (右上立札より転載)
城下町の表玄関というべき大木戸があった処である。大木戸は両脇を木柵で囲い、中央に門柱を設け、番所を置いていた。番人は常勤で原則として、西ノ刻(日暮れ)から卯の刻(夜明け)までは、治安維持のため、城下町の出入りは差し止めていた。設定時期は元文年間(一七三六〜一七四〇)で、当時作成の城下町絵図にも、はっきりと描かれている。金谷天神社は城下の入口に位置し、老松の樹叢の中に丹塗りの社殿が鮮やかに映えている。当社は鎌倉時代文治二年(一一八十六年)長門国守護佐々木四郎高綱が筑前大宰府天満宮から勧請し総鎮守社として、現在地の裏、古天神という処に創建したと伝えられている。江戸時代になって、享保五年(一七二〇年)五代藩主毛利吉本が現在地に壮大な社を再興した。

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