萩往還ひとり歩る記 萩市唐樋札場跡⇔旭村佐々並その2  TOPに戻る
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   涙松遺跡(立札より転載)
江戸時代、萩城下から山口に通じる藩主御成街道は、大屋から左に折れるので、城下の見えるのもここが最後です。松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れの涙を流すと言うので、ここの街道並木を「涙松」と呼んでいます。幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られるとき
 「かえらじと思いさだめし旅なれば、
  一入(ひとしお)ぬるる涙松かな

と詠んで一躍有名になりました。
涙松
 開発進んで涙が出たよ
この地点で3.88kmです。涙松の遺跡から作者も遠く霞む、萩の町を見ました。霞むどころか、直ぐ前に家が沢山、・・・・・遠くに見える城下、木々が繁って見えません。涙が出ました。
 悴坂(かせがざか)一里塚 (立札より転載)
一里塚は、藩政時代萩城下の唐樋の札場を起点にして、防長両国の主要道に一里おきに築かれていた。悴坂一里塚は山陽路と山陰路を結び、防長両国を横断する街道上の、唐樋の札場から最初の一里塚にあたる。塚は周囲を玄武岩の石垣で組み、内に土を盛った小山である。大乗に立てられた塚は木であったと思われる。この塚が現在まで残ったのは元治元年(一八六四)防長両国の一里塚を取除き常盤木を植え付けることが指示されたが、完全に実施されなかったことと、この街道が旧道になってしまったためだろう。
起点より4.68Km 旧街道にふさわしい道です
 女体解剖地跡と一里塚 (立札より転載
大屋涙松から鹿背坂までの旧街道沿いに大屋形場跡と脇坂一里塚がある。宝暦9年(1759年)毛利藩医・栗山孝庵がわが国で最初の女体解剖を行ったのが、この大屋刑場跡です。今は竹薮に覆われていて刑死者を供養するための石地蔵が建っています。この一里塚(県指定史跡)は、萩市内の唐樋の札場跡から一里のところにあり、現存するものとしては珍しいものです。  
  鹿背隧道  (案内板より転載)
明治9年に、仮定県道17号線として、萩〜小郡間の陰陽連絡道として計画された路線に開削された隧道である。長さ役182m、幅員約4.2m、高さ約3.9mの規模を有する。素朴で荘重な味わいをもつ切石積みのポータル(坑口)、総石張りの隧道内部が特色である。かっての萩往還道の直下、現在の萩市と阿武郡旭村の境の悴坂峠を貫通する隧道であり、明治13年の県会議会における改修決議を経て、明治16年に着工、明治19年頃完工したと推測される。大島久賀や大分安心院の石工が工事を請け負っている。明治10年代の石張り道路隧道としては総延長が最大であり稀少である。また、幕末末期の藩庁移転後の城下町萩の政治的な浮揚への願いを込められた、県内最初の石張り隧道である。
トンネルの南側より撮影 鹿背トンネルの地図
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