萩往還ひとり歩る記 萩市唐樋札場跡 ⇔ 旭村佐々並
その3
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此処までの距離は6km程度です。標高は138m程度でしょう。少し疲れましたこれからは下りに入ります。
 悴坂駕籠建場             (立札より転載)
藩主一行が領内通行の時、途中で駕籠を降ろして休息した場所である。普通は「御駕籠建場」と敬称を付けた。萩往還には悴坂のほかに釿切・日南瀬・一の坂・柊・鯖山に設けられた。此処の駕籠建場の作りは駕籠を置く切芝の台二ヶ所と,その周囲に一間半に二間半程度の柴垣を設け、近くに便所を設けていた。道の向こう側に常設の御茶屋があった。これは正式な御茶屋ではなかったが、床やいろりを備えた休息場所であった。建物の痕跡は何一つ残っていないが当時の水のみ場と思われる跡がわずかに残っている。(駕籠建て場は当時の古図を元に復元したものである。
烏帽子岩
殉難「三士の首が晒された言われる烏帽子岩です。
右の2枚の写真は萩往還にある石橋です。いつ頃作られたか分かりません。

石橋↑→
実写真とカシミールとの比較
明木川沿いから、これから行く方向を撮影しました。(左の写真)
その地点と略同地点からのカシミールのイメージ画像(右)です。こんなに低い山でもかなり正確に表現されています。左は写真より少し高めの視点で見ていますが、少し視点を下げると略同一の形になります。カシミールは山に入る人には便利な道具だと思います。
 殉難三士                       (立札より転載)
幕末の頃、毛利藩は幕府の長州征伐やイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合軍の下関攻撃の対応をめぐって、俗論派と正義派に分かれてはげしく対立していた。俗論派が正義派を圧して藩政を行うようになると、これを不満とする高杉晋作が正義派の諸隊に呼びかけて蜂起し、大田絵堂の戦いで俗論派の藩軍を破り山口に本拠をかまえた、この頃、萩では高杉らの諸隊に同情を寄せる藩上が結束して鎮静会議員を名乗り、諸隊との和平を進めようとした。この時、和平交渉の使者として選ばれたのが、香川半介(三五歳)、桜井三木三(三十六歳)、冷泉五郎(二五歳)、江木清次郎の四名でる。彼らは1865年二月十日山口の諸隊を訪れ萩に突入しないように説得した。藩軍の中には鎮静会議員による和平交渉に反対する者がいた。彼らは事前協議もなしに交渉に行った四人の使者に激怒し、使者の帰りをこの地明木権現原待ち伏せして、香川、桜井、冷泉を殺害し、江木に深手を負わせたうえ、香川と冷泉の首を悴坂にある烏帽子岩に晒したと伝えられている。時に慶応元年二月十二日であった。
殉難三士の碑
この地点が7.84kmです。時間も12時を回りましたので、此処で昼食にしました。空気は綺麗だし、天気も良く美味しく弁当を食べました。30分程度休憩し、スタートしました。 
   ←明木橋と吉田松陰
                            (立札より転載
藩政時代の明木橋は、ここより約1km上流にあった。幕末の志士吉田松陰は伊豆の下田で国禁の密航を企てて失敗し、捕らわれの身となって萩へ護送された。その最終日、安政元年十月二十四日、この明木橋を過ぎるにあたり、次の詩を作った。
   少年有所志  (少年志すところあり) 題柱学馬卿  (柱に題して馬卿を学ぶ)
   今日檻興返  (今日檻興の返)    是吾書錦行  (是れ吾書錦の行
「中国前漢の人司馬相如が昇仙橋に大望実現の誓いを書いた故事をまねて、わたし松陰は少年のころこの明木橋において志を書いたことがある。そして今、檻に入れられて返されてきたが、故郷に錦を飾って帰る思いである。この松陰の盛んな意気は、やがて松下村塾における子弟の教育を実らせ、明示維新の原動力となったのである。
起点より9.12kmの明木の町並みです。屋根が雪の滑りの良い、赤色の石州瓦を使った家が多くコントラストが素晴らしい町並みです。
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