萩往還ひとり歩る記 萩市唐樋札場⇔旭村佐々並
 その4
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明木の町から山道に入り、起点より約10kmの地点で、明木の農協より1.23kmです。
  町田梅之進 自刃の地
                                 (立札より転載)
町田梅之進は、旧山口藩士族で、前原一誠が明治九年(一八七六)十月、熊本県の敬神党(神風練)や福岡県の秋月の不平士族らの挙兵に呼応して、新政府に反省を求めようとした萩の乱に加わった。翌十年、西郷隆盛が挙兵した時、町田は萩の乱の罪で自宅に禁固中であったが、阿武萩の同士と謀り新政府の施策を正すために山口県庁を襲い、九州の西郷軍に合流しょうと企てた。同士の中に密告したものがあり、警察は五月三十日町田を捕らえたが、その夜、町田党は警察を襲って町田を奪い、山口に向う勢いを示した。県庁軍と町田党は佐々並で遭遇して相対した。六月一日、県庁軍は町田軍を押し返し明木を目指した。一升谷で町田梅之進の本体と遭い、隊長の秋良貞臣は抜刀して突撃する町田にピストルで対戦した。町田は右こめかみを撃たれ、同士に支えられてようやくここまで退き、刀を喉に立てて自害した。(行年三十歳)
県庁軍の隊長秋良貞臣は、その後防府で塩田事業に取り組み、防府塩田の基礎をつくった。
萩往還の中で、最も往還道らしいところです。明木・釿切間は最高地の高さが326mです。
一升谷の石畳 街道らしい道です 釿切への分岐点
  一升谷と石畳       (立札より転載)
一升谷は、明木市から釿切まで約
3キロメートルの上り道で、昔から長く急な坂道のため、この坂道に取りかかって炒り豆を食べはじめると、登りきるまでにちょうど一升なくなることから、このように呼ばれたといわれている。一升谷には、雨水によって表面の土が流れるのを防ぐために設けられたと思われる石畳がある。平らな石を敷きつめた幅約
1メートルの石畳は、昭和のはじめ頃までは道松とともに諸所に見られたという。私たちの祖先が築いた汗の結晶であり、数百年の風雪に耐えて何千何万という人が、いろいろな思いをこめて踏んでいった石畳は、現在では数箇所に残っているのみであるが、萩往還の面影を最もよくとどめている遺跡の一つである。
休憩所 釿切への道の石畳
 御駕籠建場と桜茶屋      (立札より転載)
御駕籠建場とは、藩主の領内通行の際、駕籠を降ろして休息するために比較的見晴らしのよい所に造られた施設のことである。萩往還では悴坂、釿切、日南瀬、一の坂、柊、佐羽山峠の六ヶ所に設けられた。御駕籠建場のつくりは、道との境を柴垣で区切り、籠須すえ台二基と仮設便所があった。藩士と足軽の休憩小屋二棟と湯茶所が、柴垣の外に設けられていた。ここ釿切では、「殿様がお着きになると、河村家から湯茶を運んだ」と言い伝えられている。ここのお茶は、塩漬けされた八重桜だったことから、「桜の茶屋」と呼ばれた。説明板後方の小高い所が、御駕籠建て場跡である。下手の河村宅を「下の茶屋」といい、少し登ったところの田村宅前には「上の茶屋」があった。
やっと釿切の里が見えた 御駕籠建場と桜茶屋
落合の石橋              (立札より転載)
橋長2.4m、幅1.7mの石造りの刎橋

刎ね橋とは、石組の両岸から片持梁の役割を果たす柱状の石材が桁として突出し、その上に板石をのせた形態の橋のことをいう。石材の分布から見ると、山陰には玄武岩、瀬戸内には花崗岩で作られたものが、数多く建造されており、他の地域では殆ど見られない橋梁形態で、山口県特有のものとされていて、この橋の場合、桁の上に3列の加工された玄武岩らしき板石がのっている。また、この落合の石橋は、山陰から瀬戸内への橋梁型式や技術伝播の中継地として注目され、瀬戸内の柳井・秋穂・防府の塩田地帯に築かれた入り川(水路)に多く見られる。石橋は人馬の往来の賑わった。幕末の萩往還の様子を偲ばせ、併せて旭村の果たしてきた地理的・歴史的な役割を発展的に考察する上での歴史的資料としても貴重な建造物である。
  
落合の石橋
北緯34°1745.01”東経13°127’43.45”
やっと佐々並の家並みが見えてきました
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