旭村佐々並 ⇔ 山口市瑠璃光寺
その1
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佐々並市の家並みA 佐々並市の地図(1/25000) 佐々並市の家並みB
  佐々並を出発
6月14日第2回目のひとり歩る記です。佐々波の郵便局前を出発します。ここは宿場町でしたが、今は1軒の宿屋だけです。江戸時代からやっておられる豆腐屋さんも有ります。
佐々並市と御茶屋   (立札より転載)
佐々並市の成立は、17世紀の半ばごろと思われる。萩往還の完成とともに宿場町、市の町(商店の並ぶ町)として栄え、駅が置かれていた。1845年頃の記録によると、市は次のようであった。総家数62軒、内15軒が商人、47軒が宿人夫馬持ちで、ともに農業に従事していた。佐々並市には、萩往還沿いの最も大きい施設として御茶屋(藩主の休憩施設)があった。慶長9年、毛利輝元が山口から萩城へ移るとき、旧佐々並小学校(現佐々並農協木材部)の敷地内にあった長松寺の前身である長松庵で休息したといわれる。それにちなんでこの地に御茶屋が建てられたと伝えられている。お茶屋は670平方メートルの広さがあって、本館、御長屋門、御蔵、御供中腰掛、仮御馬建2箇所、それに御番所があった。後年、往来の通行がひんぱんになると、宿泊施設として御客屋が設けられ、役場の隣にあった木村作兵衛宅、井本弥八宅があてられた。慶長元年1月15,16日の佐々並の戦いでは佐々並市が主戦場となり、多数の家屋焼失等大きな被害を受けた。
日南瀬の首切られ地蔵  (立札より転載
山口宮野村の武士が、囲碁の争いから相手方に討たれた。その下僕の源助は墓守のため萩で商売を始め、墓参りを欠かさなかった。ある時、源助が宮野村に帰ることにし、佐々並で昼食をとり、休息していると、「汝が休みたる下に我が形あり。掘り出して道の側に建て直しなば、汝が願いも成就し、なお、往来の人、家名を唱え、信心なる輩には、その縁によって済度せん。我は即ち地蔵菩薩なり。」とお告げがあった。減助は、村人の助けを受け、沼の中に埋もれていた地蔵尊の頭を掘り出し、僧を招いて供養をした。そのお陰で主人の敵討ちも出来たことからお参りする人も増えたそうです。この地蔵は、はじめから首がはなれていたので、首切られ地蔵と呼んでいる。
日南瀬の首切られ地蔵さんの地点は佐々並より3.6kmです。首切られ地蔵さん首は1体はありましたが、他の2体は付いていないような感じです。写真のように、麦わら帽が深くかぶせてありましたので確認できませんでした。ここは休憩所にもなっていました。また今で言うサウナの岩風呂が移設されていました。岩風呂の説明書きは消えかかっていましたので、読み取れませんでした。休憩所の裏には菖蒲の花が一杯咲いておりましたが、見る人は作者意外は居ないようです。
さらに1・4km歩いた地点が上長瀬の一里塚です。起点から22・6kmになります
一里塚は徳川幕府開設直後の慶長9年に江戸の日本橋を起点として、全国の主要街道にその築造を命じたのに始まるといわれる。防長両国では、同年毛利輝元の萩築城により、城下、唐樋札場を起点として、主要道に一里おきに設けられ、上長瀬一里塚は、萩唐樋の札場から5里の地点に当たる。一里塚は路傍の緩斜面に不整形な大小の岩石を集積して墳形をつくり、かっては半球形に近い整った形であったと思われる。旧記によると「従三田尻船場七里、従唐樋札場5里」と書いた塚木を立てていたが、元治元年、膨張両国の一里塚を廃して常緑樹に改めた。そのため土台の部分も手入れの必要がなくなり多くは崩壊してしまったが、萩市悴坂と上長瀬のものはほぼ原型をとどめており、数少ない近世の交通関係遺跡として貴重である。
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