旭村佐々並 ⇔ 山口市瑠璃光寺
その2   
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逆修石 夏木原 松蔭の漢詩

  逆修石の由来  (立札より転載)
一の坂銀山金山谷は毛利氏が慶長五年(1600)防長2州へ国がえの頃一の坂銀山は負いに開けた。この一の坂金山を管理した人は豫州の人で宇多川備後守で一の坂金山が終った時、この岩の川向の二間右で2夜3日の施行をし、米,大豆,,小玉銀等を往来の人へ与えたという。備後守は数百日の間、人力をついやして掘ったがその功なくこれを憂いて、防府まで逃れ去り宿に泊まったその夜の夢に太陽が懐に入ると見たので急いで一の坂に帰り元の如く、掘ったところたちまち多くの銀を掘り出したという。古記によると慶長の始めより元和5,6年(1619〜20)頃まで盛んであった。寛永11年(1634)宇多川備後守がこの逆修を立て施行した頃が終わりであったという。次の文字が岩にきざまれている。  
寛永11年宇多川備後守松誉宗鎮立      南無阿弥陀佛    光誉妙喜冥福   10月5日大導日

  吉田松陰先生と夏木原
江戸幕府により東送を命ぜられた先生は、安政6年(1859)5月25日、萩から江戸への途中一行と共に萩往還に沿うこの地でしばしの休息を取られた。そのときの感懐を先生はこの漢詩(七言絶句)に託されたのであった
.その意は、「私は幕府の命令で江戸に送られるが、自分の真意は天の神に正したら分かるはずである。自分は公明正大である。ここ夏木原では、五月雨がしとしとと降り、ほととぎすがしきりに鳴いている。ほととぎすは血を吐くまで鳴くと言うが、その血で、このあたりのさつきつつじも真紅に燃えている。自分の胸中も又同じ思いがする。」とわが国の現状を憂い行く末を案ずる先生の心情がよくあらわされている。先生時に満28歳
国境の碑 昼なお暗き板堂峠 間違えやすい萩往還 A
  国境の碑  (立札より転載)
この道は,江戸時代以前から部分的には利用されていましたが,江戸時代になって徳川幕府の一国一城令によって、毛利氏は萩に城を築き参勤交代制度の開始により萩と山陽道を結ぶ重要な道となり,幅約4メートル(2間)の道に整備され萩往還と呼ばれるようになりました。道すじには,人馬の往来に必要な施設として一里塚や御茶屋,通行人の取り締まりにあたる口屋などがあり,
道の両側には往還松が植えられていました。この峠は,板堂峠といい周防と長門の国境にあたります。この国境の碑は,高さ2メートル余りの花崗岩に
南 周防国 吉敷郡」 「北 長門国 阿武郡」「文化5年戊辰11月建立」 と彫ってあります。
キンチジミの清水 板堂峠付近の地図 御駕籠建場
 道を間違えた!
萩方面から県道62号線を横切り、坂を登り、国境の碑の側を通って、坂を下り、再び国道に出る。この時に正面に「萩往還→」の札が県道と並行に取り付けてある(写真A)。札の向こう側に階段がありました。この階段を確認したところ、雰囲気が展望台に上がるような階段でしたので、この県道が萩往還だと思い、県道を山口方面に歩き始めました。暫く歩き、森林学習展示館を過ぎたところで、様子が違うことに気が付き引き返しました。写真Aの所まで戻り、この階段を上って見ましたら、萩往還らしい道でしたので、さらに歩を進めてみました。標識に「階段を上る」と書き加えて戴くと間違わなかったと思います。
  キンチジミの清水
板堂峠を越えたところに「キンチジミの清水」があります。きんが縮むほど冷たい水の湧水池だそうです。当日は気温が高いためか、手で触ってみましたが、本当に縮みそうでした。9月11日の第1回歴史ウォーク参加時に飲んでみましたが、結構美味しい水でした。
  御駕籠建場(立札より転載)
付近に御駕籠楯場が設けられていました。昭和の始め頃までは草原で見晴らしのよい場所でした。萩方面から最初に山口が見え、振り返り、振り返り長門路へと越して行ったそうです。現在は杉、桧に覆われていますが、西中国一の景勝の地で晴れた日は、遠く九州の山々が望め眼下に山口の町並み、大内鰐石、天花へと往還道の眺望ができ一の坂の海の見える処 とも言われていたそうです。
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