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旭村佐々並 ⇔ 山口市瑠璃光寺 その3 |
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仮想「一の坂御駕籠建場」からの眺望 | 一の坂御駕籠建場差図 | |
仮想「一の坂御駕籠建場」からの眺望 一の坂御駕籠建て場は現在は林の中で、昼間でも暗い感じであるが、当時は平原で眺望がきいたと立札に記載されています(前ページ)。 当時の景観がどんなものなのかをカシーミールのソフトを使用して実現してみました。立札に書いてあるように、遠く三田尻方面や萩往還、山口の家並、瀬戸内海が見えたことが良く分かります。この付近の樹木は殆どが杉、桧なので、昭和の時代で植えられたものでしょう。木の大きさを見ても、戦後に植林されたものでしょう。左のCGでも萩往還と略並行につくられた県道262号線や椹野川が見えます。 |
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一の坂一里塚 | 一の坂御建場差図で復元した御建場です。A点 | 一の坂御駕籠建場の復元されたものB点 |
一の坂一里塚跡 (立札より転載) もと、この地に「一の坂一里塚」があった。今は痕跡もなくなっているが当時は、塚木を建てて 「北方 従萩唐樋札場 六里」 「南方 従三田尻船場 六里」 と記されていた。丁度この地が萩往還(萩―三田尻)の、中間地点であったことがわかる。このような一里塚が全国的に築かれるようになったのは、慶長9年(1604)以降のことである。現在はこの萩往還の一里塚の中で、原状に近い形で残っているのは、「悴坂一里塚」と「上長瀬一里塚」のみである。この一里塚は現存している陶峠下一里塚等を参考にして復元したものである。一里塚があった場所は,この場所より数メートル奥にあったものである。 一の坂御建場跡(六軒茶屋跡) (立札より転載) 「お成り道」(参勤交代や領内巡視用の道)として整備された萩往還は一里ごとに一里塚が設けらあれ各所に往還松が植えられていました。また、藩主一行の通行に伴う各種の施設も作られました。このうち「御建場」や「御茶屋」は比較的長時間休憩する際の施設でした。また、「駕籠建場」は「見晴らしのよい場所で駕籠を降ろし、殿様の一行が短時間休む場所」として設けられていました。往還の中間地点でかつ最大の難所であったここ六軒茶屋は「一の坂御建場」が置かれた。その設計図面(差図)が山口県文書館に残されています。この地に部分的に復元している建物群の配置は、この設計図面を参考にしたもので、江戸時代のある時期の「一の坂御建場」を想定復元したものである。六軒茶屋という地名はすでに江戸時代中ごろにはできていますが、宮野の八丁峠を越えて萩へ通ずる新しい道ができた後も、ここ六軒茶屋では民家の軒先を茶店にし、往来する旅人のよい休み場所になっていました。なお「一貫石」の近辺に駕籠建場と呼ばれているところがありますが、ここにも駕籠建場の施設が置かれたといわれています。 |
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膝が「ケタケタ」と笑い、後ろ向きで歩こう 板堂峠を越えると下り坂ばかりです。膝のバネが利かなくなり、重力は膝にもろに受けるようになりました。歩くのが辛い、後ろ向きで歩こう。少しは楽になりました。やっと、一の坂の下りが終わり、やっと天花の里が見えてきました。 膝の痛さも麓に着くと和らぎ、「錦鶏の滝」まで700mという道案内に誘われて、少しわき道に入ることにしました。歩くのが辛い状態です。日頃の不摂生がたたります。頑張って滝を見てきます。 |
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六軒茶屋への上がり口 | やっと上天花の里が | |
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