旭村佐々並⇔山口市瑠璃光寺
その4
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一の坂の上り口 錦鶏の滝 錦鶏湖
  萩往還「一の坂」
萩往還の最大の難所、「一の坂」を下り、天花に出てきた石畳の道です。現存する石畳が最も多いのはこの「一の坂」ではないでしょうか。ここより萩方面には「一の坂」を登りますが、それよりも、逆に下ってくる方が足の負担が多く、大変だと思います。

   錦鶏の滝
左の写真の萩往還の標識の左側に700m登っていくと「錦鶏の滝」があります。(右の写真)雄滝、雌滝と2つの滝がありますが、写真は雄滝です。700mの往復を歩いて見るほどの滝ではありません。元気の余っている人や車の人は見てみるのもいいと思います。

  錦鶏湖
錦鶏湖又は一の坂ダムです。一の坂川を堰きとめてできた湖であり、ダムです。右の写真はダムの堰堤から山口市街を見たものです。この地点で萩往還は姿を消すことになります。萩往還は一の坂川沿いに上天花畑まであったと思われ→ますが一の坂ダムが出来て、萩往還も湖の底に沈んだものと思われます。右の地図は錦鶏湖付近の地図ですが、現在は上天花からは県道62号線を萩往還として、皆さんは歩いておられるようです。今回はダムの少し下流側で一の坂川に降りれる道がありましたので、川にかかる小さな橋を渡り、萩往還を歩きました。萩往還の案内は旭村が一番丁寧で、地図無しでも間違えることはありませんが、山口市に入った途端、案内が悪く、何度も間違った道を歩いてしまいました。特にこの地点は全く案内がなく、本当に不親切な町です。
錦鶏湖堰堤(一ノ坂ダム堰堤) 堰堤から山口市内を望む
  瑠璃光寺 (立札より転載)
大内氏前期全盛の頃、25代大内義弘は現在の香山公園に、石屏子介禅師を迎え香積寺を建立しました。義弘は応永6年(1399年)足利義満と泉州に戦い戦死。26代弟・盛見は兄の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を造営中、九州の少貳勢と戦って戦死。五重塔はその後、嘉吉2年(1442年)頃、落慶しました。毛利輝元が萩入りし、香積寺を萩に引寺し、跡地に仁保から瑠璃光寺を移築しました。
五重塔は九輪の尖端まで31.2メートル各層軒が広く張出し、檜皮葺の屋根の勾配は緩くなっています。塔身は上層ほど間を縮め、塔の胴を細く見せ、すっきりした感じがします。
五重塔のうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、室町中期における最も秀でた建造物と評されています。

右の地図は一の坂ダムから瑠璃光寺付近の地図で、赤線が萩往還、青線が実際に歩いた道、緑線は通常萩往還として歩かれる道を示します。
国宝瑠璃光寺の五重の塔
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