山口市瑠璃光寺⇔三田尻茶屋町
その1
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上竪小路 築山神社入口 龍福寺参道門
   上竪小路
写真の奥側が萩方面で手前が三田尻方面です。左側を少し行きますと国宝の瑠璃光寺の五重塔があります。この地点を出発して、写真の手前側を真っ直ぐ歩いて行きます。山口市内は萩往還の案内が殆どありませんので、苦労しました。そこで山口市街地を抜けるまでの道案内を少し
しましょう。
(案内及び地図はこちらから)

  萩往還 竪小路通り
大内氏の時代には大内氏館や築山館のための大通りとして、また江戸時代には中河原町に山口お茶屋敷が設けられたこともあり、この竪小路通りは萩往還の中でも人家も集中し、最も活気のある道筋でした。


  
龍福寺本堂 (立札より転載
龍福寺は弘治3年(1557)毛利隆元が大内義隆の菩提寺として大内館跡のこの地に建てられたものである。龍福寺はもと白石にあったが、天文20年(1551)に兵火にかかって焼け、そのままになっていたので隆元が朝廷に奏してここに再興したのである。しかし、その当時の建物は明治14年に火災のため焼失してしまった。そこで、その再興に際し、当時吉敷郡大内村のお興龍寺にあった釈迦堂を移設したのが現在の本堂である。釈迦堂は大永元年(1523)大内義興の時代に建立されたものである。桁行5間梁間5間で屋根は入母屋造り機瓦葺である。内部は欅の太い丸柱や大きな虹梁、板蟇股などよく室町時代の寺院建築の特色をみせている。寺宝として大内義隆の画像や毛利氏の文書を多く蔵している。

   築山神社入口
この鳥居の奥には八坂神社と築山神社があります。この鳥居がどちらのものか、確認しませんでした。

龍福寺 龍福寺参道 鰐石の重石

  今は商店街の萩往  
竪小路を抜けると萩往還は商店街のアーケイドの道が往還です。案内板標識がありません。(こちらの地図を参考に)。山口の町並みを抜けたところが9紙野川にかかる鰐石橋です。その橋の袂にあるのが鰐石の重石である。鰐石橋は新しい橋に改修中です。この橋を渡り一路柊を目指します。柊の手前の山口IC付近はこちらの地図を参考に

  鰐石の重岩
  (立札より転載)
山口の町の東南の入口はこの鰐石であった。山口に出入りする旅客の歓送迎がここで行われた。川の中のこの重ね石は古くから山口の名勝として有名で、大内時代山口に来た中国明の趙秩は、山口十境の詩を作ったが、その一つにこの鰐石の景を詠じたものがある。
  禹門に点額して竜とならず   玉立流渓激衝にまかす    自らこれ烟霧はぜを釣る処   幾重の苔蘚は白雲を封ず
この重岩の御神体は恵比須様で締縄の長さは13m50cmある。

柊神社 ここは間違いやすいよ 吉岡一味斎遺跡
  柊神社
この社は柊大明神と称し、境、柊の二地区の鎮守で、創立年代は不明ですが、宝暦8年(1758)長州藩主毛利宗広の二女誠姫がこの神社を再興したものです。昔から婦人病の者が鳥居を奉納して祈れば霊験が「あらたかであると伝えられ、遠近から婦人の参詣者が多かったそうです。社後に柊樹の自然林があって、柊の地名もこれから起こったもので、今日でもその片鱗を認めることが出来ます。 ここより国道262号線と略並行に歩いて鯖山を目指します。

  ここは間違え易いよ! (地図はこちら
ここは国道262号線と萩往還が合流した点で、鳴滝温泉です。萩往還は鳴滝温泉の駐車場に入る道を入ります。筆者もここで国道を真っ直ぐいきました。1Km程度行った所で気が付き戻ってきました。ここで分岐しても、再度国道と合流はしますが、萩往還とは違った道になります。


 吉岡一味斎遺跡 →
分岐した道を少し行ったところにあります吉岡一味斎は八重垣流を編み出した剣法の達人で毛利藩剣道指南役ですが、ここで打たれたそうです。
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