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悴坂の峠を越え下りに入る 道の駅「萩往還公園」の銅像 道の駅「萩往還」での最後の休憩
悴坂の峠は高さは140m程度です。最後の低い峠ですが、疲れた足につらい峠です。これが最後の登りだと気持ちが足を進めてくらました。今回はこの坂を下って、道の駅「萩往還公園」を通過するルートが設定されていました。ここには勤皇の志士達の銅像が沢山立てられていました。上の中の写真は左から「吉田松蔭」、「高杉晋作」、「久坂玄瑞」の銅像です。その説明板には次のように紹介されていました。

 吉田松蔭 天保元年−安政6年 1830-1859
江戸時代の終わり頃、萩の松下村塾で幕末の志士や明治維新に活躍に活躍する多くの人材を育てました。萩藩士の二男として、萩の松本村に生まれ、幼くして吉田家の養子となり、山鹿流兵学師範の職を継ぎました。松蔭は生涯にわたって日本中を旅しています。世界に眼を向けた松蔭はアメリカ軍艦で海外渡航しようと計画しましたが失敗しました。その後安政の大獄によって処刑されました。
 高杉晋作 天保10年−慶応3年 1839-1867
萩城下の菊屋横丁に武士の子として生まれました。19歳の時に、友人の久坂玄瑞のすすめで松下村塾に入塾し、久坂と並んで村塾の双璧と称されました。長野の佐久間象山を訪ね学びました。身分に関係無く組織された奇兵隊を結成し、四境戦争などで連戦連勝して長州藩の勝利におおいに貢献しました。幕末に大変活躍しましたが、明治維新を見る直前に下関で病死しました。
 久坂玄瑞 天保11年−元治元年 1840−1864
萩城下の平安古で生まれました。松蔭と出会ったのは17歳の頃で、松蔭から「防長年少第一流の才気ある男」と評されました。松蔭の妹の文と結婚して松蔭の実家・杉家に同居し、松下村塾での松蔭の教育事業を助けていました。吉田松蔭の亡くなった後の村塾ではつねに中心的人物でした。京都での蛤御門(禁門)の変の戦いで負傷し、25歳の若さで亡くなりました。
涙松遺跡 ゴールが見えて来ました 橋本川の常盤橋 後わずかです
暫しの休憩の後、ゴールを目指して歩を早めました。涙松遺跡も横目に通り、萩の中州にはいりました。ゴールが設定されている萩城址のある指月山が遠く小さく見えます。少し回り道になっていますので、8km程度の行程です。萩駅の前を通り、赤間関街道北道筋を歩きます。北道筋は面影山の麓、橋本川に沿って玉江まで歩きます。途中には大照院があります。玉江で橋本川にかかる常盤橋を渡り、堀沿いに歩き城跡に入ります。
ゴールの旗と時計が目に入ってきました。時間は8時間26分54秒と刻んでいました。何とか8時間30分以内でゴールできました。山口に帰るバスを待つ間、接待のお茶を飲み、疲れを癒しました。
萩往還は山口→萩の方向は始めて歩きましたが、萩→山口の方向が歩くには厳しい感じがしました。
関係者、ボランティアの皆さんありがとうございました。楽しく一日歩くことが出来ました。来年も元気なら参加しましょう。
ゴールの旗が見えました ゴールの接待所で一服
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