周防久保→玖珂  その2 TOPに戻る  前のページ  次のページ
勝間の家並み 勝間駅前交差点 勝間駅周辺
国道2号線より右に折れ、旧山陽道に入る。2間ばかりの道路で雰囲気は感じられる道ではあります。勝間駅の前で熊毛神社の参道とクロスする。国道と再び合流し東に向かう。国道2号線を歩くのは短く、右側に薬のスーパーがあるのでその手前から右折する。此れから少し旧道を歩くので間違いやすい。地図を参考にして下さい。JRはトンネルに入りますが、旧山陽道はその上を歩くようになります。軽い峠を越えると熊毛の家並みが見えます。
勝間⇔高水のルート 熊毛の町並み 決別の地
左側に吉田松陰と寺島中三郎との決別の地があります。そこの案内板には「安政六年五月松蔭は江戸に送られることになり二十五日檻興は萩を発し小郡を経て山陽道を東進し6月3日高水村を通過した。中三郎は当時高水におり呼ぶ坂に於いて師と無言の別れを告げた場所である。」と書かれている。また、石碑に 「かりそめの 今日の別れは 幸なりき ものをも言わば 思いましなん・・・吉田松蔭   よそに見て 別れゆくだに 悲しきを 言にも出でば 思い乱れん・・・寺島中三郎」 と決別の歌が刻まれていました。さらに東に歩きます。
呼坂本陣跡 橿原神宮参道 JR高水駅
熊毛の町に入ったところに呼坂本陣跡があります。そこには {防長両国を東西に通じる山陽道は古くから開け、万葉集に歌われ、また南北朝時代(約600年前)の旅日記「道ゆきぶり」に現在の呼坂の地名が「海老坂」と記されています。江戸時代、河内家は代々庄屋や大庄屋を勤め、天明年間(1781年)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をしました。河内家には現在も大名等宿泊、休憩の際の「お休み札」、「宿泊の部屋」、安政3年(1856年)より約30年間の「萬日記」、当時の「屋敷見取り図」そのた貴重な資料が保存されています。河内七左衛門は「御報恩の為、自力を以って相勤め、格別の御仕成御座無候」と古い記録にあります。}と書かれていました。少し東に行くと橿原神宮があります。さらに東へ進みます。JR高水駅前の通りと交差する
お大師さん 今市宿の道標 正覚寺と村塾跡地
この付近の山陽道沿いにはお大師さんが88箇所めぐりのように番号が打たれて祭ってありました。この近くで山陽道はJR岩徳線を超えて北側にでます。ここが今市宿です。その交差点の一角に道標が立っていました。道標には 「北 米川川越桑根村道、左約40丁西八代中須村道」 と書かれていました。山陽道が鍵のように曲がったところに正覚寺があります。その直ぐ下に高水村塾跡の標識があります。
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