西国街道 下関←吉田 その1 TOPに戻る  次のページ
西国街道吉田の宿場地図 道標 高札場跡
今回は西国街道(旧山陽道)の下関(赤間関)・吉田の宿の間を吉田から赤間関に向かって歩いてみました。吉田には山陽本線小月駅よりサンデンバスで来ました。バスは本数が少ないので注意が必要です。因みに6時49分、7時53分、9時07分、11時03分程度です。下関駅までは散策をすると35kmを越えますので、朝の乗り遅れは行程に影響をきたします。
吉田の宿は西国街道と萩からの赤間関街道中道筋の合流点で交通の要所になっています。この吉田の町には高杉晋作の墓となる東行庵が直ぐ近くにありますが今回は寄りません。上の地図で赤い線で示しているのが西国街道です。空色で示す道が赤間関街道になります。その交点にあたる所が上の中、左の写真です。前側の道標には「左萩道」「右上方道」と書かれています。後側は観光案内用の道標です。それには「吉田旧街道旧山陽道の街道筋に有り、江戸時代毛利藩本藩の所領として吉田宰判の代官所や本陣も置かれ宿場町として栄えた。」とあります。
 高札場(上の右の写真) 立札より転載
高札場とは江戸時代から明治三年に廃止されるまでの間、一般の人に法令等を徹底させる為に、街道の宿場や辻、名主宅前などの目立つ場所に幕府や藩の法度掟書、お触書、犯罪人の罪状等を書いて建てられた板札で、これを掲げる場所を高札場と言った。
西国街道の下関(赤間関)方面を見る 西国街道の厚狭方面を見る 奇兵隊の遺跡 末富家
この交叉点を赤間関に向かって歩きました。スタートは午前7時11分です。少し歩いた所に奇兵隊の史跡となる末富家があります。
 末富家 (案内板より転載)
慶応元年(18654月吉田村に陳を構えた奇兵隊は庄屋末富虎次郎宅を本営に定めた。以後、末富家は奇兵隊の物資調達など、その活動を物心両面から支えることになる。慶応三年(1867)に没した高杉晋作の葬儀も末富家から出ているし、山県狂介(有明)も一時期、当家の2階に下宿していた。奇兵隊の本営には「会議所」機関が併設されていて、隊士たちの達の話し合い(会議)によって、物事が決定した。奇兵隊は民主的で近代的な軍隊であった。末富家の邸宅は外装は一部変わったが、幕末当時のものである。
道標と地蔵 吉田大橋の上から見る木屋川の下流 新幹線前後の街道地図
吉田の町並みを過ぎたところに地蔵があり、県道260号線と交叉します。街道はそのまま直行します。左に曲がると高杉晋作の葬られている東行庵があります。木屋川はこの地点では大きくゆったりとした川となっています。これからはこの川添に歩くことになります。
川沿いから少し離れる処があります。新幹線の鉄橋の手前の一箇所は現在でも通行は出来ますが、崖崩れでかなり危険です。修理は行われておりましたが、今後通行可能になるかどうか分かりません。他の一箇所は新幹線の鉄橋を越えて小月製鋼所の中です。ここは朝早くて、閉まっていましたので通行出来ませんでした。街道は地図でライトグリーンで示しているところです。
TOPに戻る  次のページ  ページの先頭