更新 2006年06月16日
大休指月石畳道  TOPに戻る   次のページ
                  
              わずか260m残された 千林尼道とは!!!  (案内板より引用)

千林尼道は宇部市楠木町船木(旧厚狭郡楠木町)を中心に千林尼が住民の為に敷いた石畳の道を言います。現在残されている千林尼の石畳は楠木町船木の周囲に3箇所残っています。
千林尼(せんりんにせんりんじと両方の呼び方が有るようですが?)は西岐波村(現宇部市西岐波)大沢で生まれ、20歳前後に出家し、1840年前後、宇部市の常盤池ほとりに庵を構えたといわれています。1857年には船木逢坂の瑞松庵末寺観音堂主となり、明治2年に60歳前後で死去しました。船木は元禄年間に毛利藩の勘場(代官所)が設置され、厚狭、小野田、宇部方面に向けて往還道路がひかれていた。この地方の中心的位置にあった。当時、船木逢坂の観音堂主をしていた千林尼はこれらの道の険しい坂道を行き来する人馬の苦しみを見かね、自ら托鉢をして浄財を集め、石畳道を敷いた。そのひとつである「千林尼の大休・指月石畳道」を歩いてみます。この石畳道は山陽小野田市指定文化財です。(平成61214日指定)

左の地図は「大休・指月石畳道」のある場所の地図です。赤色の線が現在残っている石畳道及びそのアプローチ道です。この線はGPSを使用して作製したものなので、そんなに間違いは無いと思います。歩行距離で入り口より405mです。
青色の線はこの付近を通る最も古い道です。この道は有帆川の土手から続く道で、多分この道が石畳道に繋がっていたと思われます。石畳道の入り口付近が少し、屈曲して、不自然ですが、昔は緑色の線のように石畳道とは直線的に繋がっていたのでしょう。(作者の推測)
また、石畳道から船木側は現在の県道に緑色の線を引いていますが、実際はわかりません。この部分は船木鉄道の線路道でしたが、その以前は道が有ったのではないでしょうか。船木の中心街の道に通ずるのが自然ではないかと思います。
何故、往還道はこの山の中を通したのでしょう。有帆川の川沿いに船木に行けば坂も無く楽な感じがします。現在では川の護岸が整備されて、通行も簡単に思えますが、地図を見ると川の東側は急峻な崖があり、昔は多分通行が出来なかったのでしょう。そこで已む無く、山の中を通行したのでしょう。
追記 検証
左の図はカシミールの地図ソフト(無料)で、国土地理院の2万5千分の1の公開地図(無料)と50mメシュの高度地図(有料)を利用して作成した。断面図です。有帆川の霜田橋の前後から直ぐ傍の山(名称不明 97.4m)の山頂、石畳道の終点地点(最高地点)を通る線の断面を大休側から見たものです。
この図を見ると、確かに有帆川の傍は急峻で通行が困難な感じがします。県道は旧船鉄の線路の跡を利用しているので、山を削り取っているはずです。昔はもう少し高さがあったと思われます。そうしてみると、石畳道のあるところは通行していくには、妥当なところだったのでしょうね。
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