萩往還(山口~三田尻)
2014・07・20
三田尻御船倉
戻る    TOP   前のページ 
公園で小休止し、南西方向に出て行きます。 三田尻町で西北に進路を変え、細い道を行き、歴史の古い醤油屋さんの前を通りぬけます。 途中で左に曲がります。ルートは下の地図を見てね!
県道184号線に一旦出て南に向かいます。 直ぐに右折します。
次の路地で萩往還に戻ります。
来る時に通った道を行きます。正面の所で右折しましたが、帰りは左折します。
左折した道は古く趣のある屋並みです。 老松神社の前を通ります。本日はお祭りのようです。参道の石橋が良いですね。 更に南東に進みます・

文政12年3月15日、長門国萩魚棚沖町に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。兄に松島剛蔵、弟に小倉健作がいる。
弘化元年明倫館に入り、同4年19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを受ける。安政2年4月明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年2月相模出衛を命ぜられ、同4年4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業はようやく盛んになり、翌5年11月松下村塾閉鎖まで、小田村は直接関係はなかったが、松陰の信頼厚く、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め相敬愛するところは二人の交わりの特色である。松陰投獄後塾生指導の任に当たり、国事に忙しくなり、塾の世話ができなくなったが、明治以後杉民治と共に一門の中心となって、1884年元老院議官に転任。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年男爵を授けられる。明治23年10月20日、錦鶏間祗候となる。大正元年8月14日、山口県の三田尻で死去。84歳歿。没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された
明覚寺の前を南西に向かいます。 萩往還に出て北西に行きます。 萩往還を左折して西に向かいます。
岡村町を西に進みます。空の様子がおかしくなってきました。真っ黒い雲が出て来ました。 桑山公園沿いを北に入ります。
當堂大師堂の傍を行きます。
左に墓地があります。ここが文・楫取素彦夫妻の墓地です。
文・楫取素彦夫妻の墓
案内板 こちら
 更に北に進みます。 この道にはお地蔵さんが沢山あります。 
桑山公園の裏道に合流します。   その直ぐ傍に野村望東尼終焉の地とされた碑があります。その碑を回って裏側に
説明板 こちら
 細い道を北に向かいます。空は真っ暗になりました。
 降り出しました。イオンの前を西に向かいます。 雨は本格的になりました。ドールに到着です。  ずぶ濡れで長距離をお疲れでした。 

 戻る    TOP   前のページ