赤間関街道中道筋 
吉田→美祢   No.5
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植松の家並み 左植松 右川東 旧赤間関街道
県道233号線を下って植松が見えるところまで来ました。街道から植松方面への分岐点でおばあちゃんと話していると、県道233号線は今は整備されて広くなりました。ここは道が真直ぐだが、ちょっと前は家の横を通っていました。少し行くと昔の街道が少し残っていますよ。若い頃はその道を使っていたが今は通れませんと話されました。少し先に行くと案内板がありました。
今も残る赤間関街道 庚申塚 江の川原の家並み
それには「歴史の道(赤間関街道) 藩政時代、藩主の居城が萩にあったことから萩を基点として班内の交通網が発達しました。この赤間関街道(中道筋)もその一つで萩と赤間関(今の下関)を結ぶ重要な街道でした。往年節や庶民、または憂国の志を抱いた維新の武士たちもそして騎兵隊も戦いの場である大田や絵堂に向けて通ったに違いありません。吉田松陰も21歳の時九州遊学の旅をしたのもこの街道でした。交通手段の発達と共に、往時の道は拡幅改良されてきましたが、左の山道は当時の街道の面影を残す貴重な歴史遺産です。ここから150m程先から左の山へ下っていますがそこからは通行できません。」と書かれていました。
三界霊塔 江の河原の石造板碑 江の河原地図
 「江の河原の石造板碑 花崗岩の平らな自然石で現在小堂の中に安置されている。碑の正面上方に月輪を描きその中に「タラーク」の梵字が蓮台に乗っている。梵字「タラーク」は虚空蔵菩薩のことで、この菩薩は人々を救うためあらゆる姿になって表れる仏である。碑の銘文によると永正14年(1517年)11月4日に厚保の江の河原において、この石塔を建て85人のものの逆修供養を行いその願主は徳椿であることがわかる。逆修とは人間が生きている時、死後の供養をすることであり、江の河原の85人の人々が徳椿の主唱に応じ、現世の安穏と後世の極楽往生を願いこの碑を建て供養したのである。美祢の地名が文字として残っているものとして貴重な資料である。」と記されていました。
街道があるとは思えません 少し道らしき感じ 道路に出そうです
石造板碑の収めてある小堂から先は道があるようには思えません。止めようとしましたが、少し入ってみることにしました。少し入ると道らしい感じがしてきました。さらに進むと向こうにアスファルトの道路が見えてきました。アスファルトの道を右に廻ると厚狭川の川沿いの道路にでました。
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