赤間関街道中道筋 
吉田→美祢  No.6
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四郎ヶ原付近の地図 四郎ヶ原の宿場が見えます
江の河原から厚狭川沿いの県道33号線に出て、北上します。四郎ヶ原の宿場の手前は小さな山を廻るのが赤間関街道の道ですが、墓地の所で道は藪になって迂回することは出来ません。上の地図で緑色の道は通行が出来ません。四郎ヶ原の宿場に入る所に石碑がありました。この前が街道だったと思われますが、現在は道がありません。少し県道を北上して左に折れ、街道筋に入りました。
藪となった街道 旧街道の入り口より覗む 四郎ヶ原付近の街道
県道33号線からの街道の入り口は藪となっています。そこらは北側に眼を向けると真直ぐな街道を確認できます。街道はありますが、家並みは昔の面影は留めていません。
吉田松陰投宿の碑 諸隊(膺懲隊)宿陣の跡
四郎ヶ原の宿場の街道筋に残されていたのは吉田松陰投宿の碑及び諸隊宿陣の碑でした。吉田松陰投宿の碑には《吉田松陰投宿の碑 嘉永3年(1850年)8月25日、九州遊学のため「萩を発ち絵堂、秋吉、岩永、河原を経てここ四郎ヶ原に宿す」と西遊日記に記されている。時に松蔭21歳、初めての藩外への旅立ちであった。日記の序に「発動の機は周遊の益なり」と書いているように この旅は松蔭の心を大きく膨らませ動かさずにはおかなかった。宿は特定できないが、ここ四郎ヶ原は松蔭のたびの第1夜の夢を大きく結ばせた。》と記されています。少し北側にある諸隊宿陣の跡の標識がある。諸隊とは膺懲隊(ようちょうたい)をさすようです。膺懲隊は長州の諸隊のさきがけで、文久3年7月赤川敬三の提唱で組織され、後に第2奇兵隊として清光寺駐屯したそうです。
分岐点 美祢の家並み 今回の目的地 JR美祢駅
厚狭川沿いに北上し、祖父が瀬付近で厚狭川を渡り、東に向かう。当時はこの付近には渡しがあったのでしょうか?川は浅いので水の中を歩いたかも知れません。渋蔵でもう一度厚狭川を渡ります。現在の国道435号線が県道33号線と立体で交差する点で旧街道は県道からはなれ町並みに入ります。この道は昭和初期の面影は残していますが、旧街道の面影はありません。今回の目的地に着きました。歩行距離20.8km、所要時間5時間29分でした。
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