新撰長府散策コース    第7番 ~ 第9番

2014・03・01
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 国道2号線院内西の交差点を横切り南下します。  ここの道路は以前は狭く車や歩行者が通りにくい場所でしたが、整備されて通り易くなりました。 川沿の道を横切ると昔の静かな佇まいを感じる所でしたが、今は何処の都会かなと思うほど整備されていました。 
 川の直ぐ傍の大乗寺の塀は漆喰が剥がれて土壁が出ていましたが、それが永い時を感じる最高の光景でしたが、・・・今は??・・・・  大乗寺の土壁むき出しが長府そのもだったんです。今はもう・・・  大乗寺の山門の前を通り過ぎて、先に隣の徳応寺に行きます。
 徳応寺に到着です。

徳応寺は浄土真宗のお寺で、文明2年加賀の国大道村(石川県)の永元により創建されたもので、元亀年中(1570年から1573年)に四世了恵が長府に再建した寺です。
 ↑ 山門横の格子戸を潜り中に入らせて頂きました。



  一字庵菊舎の句碑です。ここと功山寺にもあります。 →
徳応寺の本殿です。 徳応寺の山門の内側です。 再び大乗寺にもどりました。
 大乗寺の本殿です。  本殿の裏は墓地になっています。その一角に  一字庵菊舎の御墓がありました。
奇兵隊士の墓
1866年(慶応2年)4月に発した第2次長州征伐。その中でも、小倉小笠原藩との交戦は「小倉戦争」とも呼ばれ、征長戦最大の激戦であるとともに維新への一大転機となりました。6月17日明け方、奇兵隊・報国隊・正名団は田の浦(北九州市門司区)を奇襲。高杉晋作と坂本竜馬も艦隊を率いて砲撃を開始しました。開戦初日を勝利で飾った午後4時過ぎ、下関に帰陣する奇兵隊士18名を乗せた船は(不幸にして前田沖へ流され、庚申艦に相触れ、海中に沈没す、橋本虎吉・中村元之進両人対に不帰)と「奇兵隊日記」にあります。奇兵隊二番砲隊両名の海難事故を悼み、その名誉を守る措置として、ここ大乗寺の墓碑には桜山招魂場(高杉晋作建立の奇兵隊戦没者慰霊場)の墓碑銘と異なる碑文が記されています。また、当墓地の東側には、1864年の「下関戦争」で四国連合艦隊っと交戦し前田砲台で討死した安本虎三時氏墓も残されています。合わせて墓参くださるように。
 本殿の裏は大きな墓地になっていました。  墓地の奥の方に奇兵隊士の墓がありました。
 
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