防府→福川  その3 TOPに戻る  前のページ  
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柳川の傍にある浮野の案内板 浮野町 浮野町の案内板
岸津の県道からの分岐点より1000mで川を渡ったところに標識があります。「浮野入口 山陽道」と書かれています。山陽道の正面には今から越えて行く浮野峠となる山が見えます。中の写真の付近は昔は往還松が茂っていたと案内板には記されています。峠までは1500mですが、町の中に浮野町についての説明がありました。以下の通りです。
浮野町
都と九州の大宰府を結ぶ重要な交通路である山陽道に沿う浮野町は、早くから開け、殊に近世江戸時代には浮野半宿として旅をする者に対し人足と馬を用意し次の宿駅まで継ぎ送りをする仕事をしていた。そのため藩主から援助を受けて、人夫八人と馬十匹を昼夜交代で用意していた。また、継ぎ送りの駄賃を公示した高札場があった。町の長さは四町五間(約450メートル)で往還(道路)に面して両側に四十五軒の屋敷があった。明治四年に継場が廃止されるまで富海・宮市両宿場の中継地として浮野半宿の役目を果たしていた。
残念ながらここより暫くの間、写真が撮れていませんでした。現在の国道はトンネルで浮野峠を越えるようです。
浮野峠改修の碑 碑の案内板に記載されている地図
野峠を越えたと頃に石碑がある。案内板には下のように石碑に書かれていると説明されていますが、読んでも分かりません。当時の地図も書かれているので、合わせて見ると、何とか理解できました。
浮野峠改修碑 碑文

此道24間毛登満道那久わずかに岩の者佐万を和計て加つ都つ人能よ不跡阿利是越本道百間丹く良ふ留に其近畿こと四分能一奈利故今其通不跡遠開きて新尓此道乎都久連り其意毛はら人農以多ツ起を止免て世尓堂与理阿らし米ん止に阿梨 明治四年十月建之

要するに100間もあった道程をバイパスを作り4分の1の24間にした。と言うことらしい。
← 明治末期の浮野町の地図
石畳道 石畳かどうか判別できません 旧山陽道の標識
さらに歩を進めると石畳道の標識がありましたが、草が生い茂って石畳かどうか判別できませんでした。暫くすると左側に「旧山陽道」と書かれた木の標識があります。
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