 |
防府→福川 その4 |
TOPに戻る 前のページ
次のページ |
|
|
|
浮野峠を越え富海へ |
富海の海岸が見える |
直ぐ下は旧2号線と山陽本線 |
現在では整備がされていない浮野峠は通過するのも厳しい感じがしましたが、整備されていればそんなに厳しい峠ではありません。峠の南に茶臼山の古戦場があります。案内板には「大内義隆を滅ぼした須恵晴賢は、厳島の戦いで毛利元就に敗れた。大内氏の旧領地を手中に収めた毛利氏は豊後の大友氏と対戦し筑前立花城の攻撃にかかった。この時大友宗麟は大友家に寄食していた大内輝弘に大内氏再興を図る後期であると言って手兵二千を授け山口占拠を目指して立ち上がらせた。輝弘は総大将となり、本体は秋穂浦に上陸し、永禄十二年(千五百六十九)十月十二日山口へ乱入し旧大内氏の居館に陣地を構えた。これを見た毛利軍は筑豊を放棄し、吉川元春を追討軍の総大将とし一万の兵をもって山口に急行した。輝弘は秋穂浦に逃れ他がすでに船はなく、やむなく海岸沿いに東上したが右田岳の城兵の要撃に遭い辛うじて脱出した一行は、浮野峠を越えて富海を出たが、ここにも一隻の船影さえない。しかしその前方椿峠には徳山野上庄の杉次郎左衛門、海岸からは由宇正覚寺の別当周音が、各々手兵を率いて待機している。輝弘は茶臼山に引き返して、最後の抵抗を試みたが、後ろからは吉川軍が迫ってくるし、ついに力つきて大内氏再興の夢もむなしく自害して相果てた。ここにある石祠は、正面に大内菱の紋を彫刻した笠石があり、内部には別当と刻まれた自然石がありさらに石祠の奥壁に「大内霊神」と彫りこまれているところから、輝弘の石祠と言い伝えられている。」と書かれてある。 |
|
|
|
手懸岩 |
橘坂 |
案内標識「山陽道 橘坂」 |
この辺りからは富海の海岸が見えます。この下は90度の断崖で旧国道2号線と山陽本線が真下に見えます。橘坂を下り始めたところに手懸岩があります。そこには「山陽の旅今昔」として次のように書かれています。「このあたりは古来交通の要衝であり、旅の思い出を物語る歴史のふるさとでもある。古代から明治維新に至る長い間旅人に親しまれたこの峠の道も、明治10年からは海岸の旧国道へ、更に昭和33年からは下に見える茶臼山、富海両トンネルの開通による国道2号線へと変わっていった。また、昭和五十七年にはこの地価に防府バイパスが貫通し、六十一年には山陽自動車道がその北側に開通した。鉄道も明治三十一年に下に見える山陽本線が開通、昭和五十年には、新幹線が近くの大平山トンネルを通るようになった。このように山陽交通の大動脈がここに集中し、ふるさとの地図は次々に塗り替えられていく。ここは草した交通の歴史を一望に納められる唯一の地点である。」 そこに手懸岩があり、「山陽道の旅人たちはこのあたりに来ると眼下に見える瀬戸内海の絶景にしばし足をとどめ、この前にある岩に手を懸けて休んだという。それでこの岩は手懸岩と言い伝えられている。また、富海側へ下る坂を橘坂と言い、応安四年(1371)九州探題今川貞世(了俊)が「道ゆきふり」に次のように書き残している。・・・あら磯の道よりもなお足曳きの山たち花さかぞ苦しき・・・・ なお、このあたりの風景を尾張の菱屋平七は「筑紫紀行」に次のように書いている。さて、山路にかかる。右は岩山けはしく屏風を立てたる如く、左は海岸水をさる事数丈にして其様東海道の薩垂峠に良く似たり南は漫々たる碧海をへたてて豊後の国遥かに見え、凛然として危ふく、け恐ろしけれど、且は広濶の観望に胸中を陶写す。」 |
|
|
|
富海本陣跡 |
格子窓の家 |
椿峠に向かう山陽道 |
富海の町に入ると旧街道らしい雰囲気が残っています。富海の本陣跡も保存されていました。格子窓の家も残っています。国道2号線を横切り北に向かえば椿峠になります。 |
TOPに戻る 前のページ 次のページ ページの先頭 |