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| 下関←吉田 その5 | TOPに戻る 次のページ 前のページ | |
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| 長府亀の甲付近の町並み | 忌宮神社鳥居 | 荒熊稲荷神社 |
| 乃木神社より少し東側にある亀の甲の路地ですが、土塀、石垣等昔の佇まいをみせる所です。街道に戻ると右手に忌宮神社の鳥居があります。鳥居を潜り、階段を上ると右手に荒熊稲荷神社があります。本殿前の広場に鬼石がありました。 数方庭の由来と鬼石 第14代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高磨、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。賊軍は色を失って退散し皇軍は喚起の余り矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数万庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。 |
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| 鬼石 | 忌宮神社本殿 | 長府惣社町 |
| 長門国二ノ宮・旧国幣社 忌宮神社 由緒 (立札より転載) 忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定の為御西下、この地に皇居豊浦宮を興して七年間政治を行われた旧址で、天皇が筑紫香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をおまつりして豊明宮と称す。三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際中殿忌宮に合祀して一殿となり、忌宮をもって総称するようになった忌とは斎と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。現在の社殿は明治十年の造営で、昭和五六年に改修した。古来、文武の神として歴朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている。現在も詣でる人は多いようです。 |
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| 長府毛利邸入口 | 毛利邸中庭 | 長府川端町 |
| さらに西に行くと右折して惣社町にはいる。これからは山側に入ります。少し上ったところの右側に長府毛利邸があります。坂を登って門を入ると広場があります。その奥に屋敷がありますが、石垣や漆喰の塀壁は良いものです。 長府毛利邸 (立札より転載) 長府毛利邸は、長府毛利家十四代当主の毛利元敏公が、東京から帰住するため、この地を選んで建てた邸宅で、明治31年(1898)に起工し、明治36年6月2日に完成した後、大正八年(1919)まで長府毛利家の本邸として使用されました。 その間、明治35年11月には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習を御視察の際、当邸を行在所として使用され、、一部の部屋は当時のまま残されていて、往時を偲ばせてくれます。 また津軽家に嫁がれた、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元敏公のお孫さんにあたる)も、このお屋敷で幼少時代を過ごされています。邸内にある庭園は、池泉回遊式で苔・石・池・楓・灯篭等の配置の妙は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした日本庭園の佇まいを感じさせてくれます。 川端町のにも土壁の塀が残っており、長府らしい道です。さらに街道を西に進みます。 |
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