![]() 明木→秋吉 No.6 |
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標識は残っています | 迷い点1 | 迷い点2 |
街道全体は案内もあり判別が付きますが、2箇所ほど道が分かれていて案内のない場所があります。最初の「迷い点1」は右に進みます。ここは何となく右ではないかなと感じる場所です。次が真ん中の木があるだけで少し先では合流するのでは・・・という感じのポイントです。最初右に行きました。行くにつれ道は狭くなり、登り気味になり、最後は道が消えてしまいました。このポイントまで戻り、左側を進みました。左側が正解でした。 |
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一応整備されています | 標識が木製になりました | 秋吉台への登山道が見えました |
右側に入ると道は一応整備されており、通行には問題ありません。道路の案内標識がステンレス製から木製に変わってきました。 石畳と街道松 この地は大久保台と呼ばれている。江戸時代の終わり頃、この付近は石畳が敷かれ、今もその名残がある。また当時は道筋に沿って街道松が植えられ、見通しが良く、歩きやすい道であったらしい。所々残る根株がその面影を忍ばせる。また「萩より六里」の一里塚や御駕籠建場もあったといわれている。 と案内板に記されていましたが、石畳も根株も確認できませんでした。ここまで来ますと下のほうから車の音が聞こえます。間違いなく秋吉台への登山道路が近くにあることが分かってきます。道路の姿も見えてきました。この道路沿いに道はあります。 |
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フェンスのこちらが街道 | お稲荷さんが見えてきました | 歴史の道の案内板です |
街道は登山道路と平行に並んでいます。今回は草も刈られて歩きやすい状態でしたが、昨年調査に来たときは背丈以上の草が生えてとても歩けるような状態ではありませんでした。今回はゆっくり歩けます。このお稲荷さんの前で、現在の道路と合流しています。そこには歴史の道として案内板がありました。 歴史の道(松蔭の道) 藩政時代、藩主の居城が萩にあったことから萩城を起点として藩内の交通網が発達した。この赤間関街道もその一つで、萩と赤間関(今の下関)を結ぶ重要な街道であった。往年、武士や庶民そして又、憂国の志を抱いた維新の志士達はどんな思い出歩いたことでしょう。吉田松陰が21歳の時、萩から九州遊学の旅をしたのもこの街道であった。このたび、この赤間関街道を調査し「歴史の道」(松蔭の道)として修復整備したものである。吉田松陰の西遊日記には次のように記されています。嘉永庚戍八月二十五日、晴早発。械ケ坂を越えて夜明く。明木より右折して馬関の道に就く。これより雲雀山上までには石径通じ難し。絵堂村以西は土地較可なり。到る所畠作の物をみるに、甚だ不景気なり。蕎麦を最とす。その他吉貝・牛蒡・羅蔔の類、皆然り。稲は刧って可なり、然りと難も、是れ亦見るに忍びざる所なきにも非ず。絵堂・秋吉・岩長・河原の数駅を経て四郎ケ原駅に宿す。時に日僅かに三竿(さんさお 午後五時前後)。 |
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広谷の家並みが見えます | 秋芳洞の入り口です | 最終地の秋吉バス停です |
下のほうに広谷の家並みが見えてきました。秋吉洞の入り口の道路ですが観光客は殆ど見当たりません。バス停に到着しました。本当にお疲れでした。到着は13時45分50秒 所要時間 6時間53分31秒 歩行距離 22.028kmでした。 次回はここから美祢市美祢駅前までを歩きます。 |
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