下関←吉田 その3 TOPに戻る 次のページ 前のページ
道標 見廻り道路 道標(近代阪)
本町通りを少し南に行くと道標がある。「右かみがた左とよた道」と書いてあります。道標の少し南の交叉点から右折して「見廻り通り」に入ります。これから長府の町までは歩道が黄土色に塗られていますので、道を迷うことはありません。見廻り通りの入口には最近つけられた道標があります。それには「下市から茶屋入口までの山陽道の一部で下市は宿場街また茶屋町は歓楽街で栄えた。その為武士が庶民の暮らしや治安を見て回った」と書かれています。その先には小月観音の参道が右手にありますが、今回は行きませんでした。
更に進むと「孝行塚」が建てれていました。
小月観音参道 孝行塚 内藤家門
 孝行塚 (立札より転載)
「孝女政の碑」と刻んであるこの石碑を清末では孝行塚と言い習わしています。碑文にあるように明治七年(西暦1874年)に建てられたものです。碑文の概要 「政(まさ)は清末の角屋助三郎の娘として生まれましたが、幼くして父を失い、長く母だけと暮らしていた。非常に親孝行で、結婚してからも母にも夫にも良く仕えたので、殿様から度々褒められていた。明治4年5月1日、46歳で病死した。その生前の行為をたたえる者が多く、募金してこの碑を建てたのである。これで政の孝行が忘れられなくなる。今も清末では政の命日の5月1日が敬老の日と定められています)」

清末に入り、街道を外れ清末の町を散策しました。西の方向になりますが、下関市の文化財に指定されている内藤家の表門を見てきました。更に進むと清末中町に清末八幡宮の鳥居があります。この鳥居は文化五年戌辰九月に建立されています。先を急ぎますので八幡宮には寄りませんが、第96代後醍醐天皇、建武二年(635年前)豊前国(現大分県)宇佐八幡宮より勧請し清末地区鎮護として創建され、安政四年再建時に藩主毛利元純領御神殿を寄進し、氏子もまた奉賛し楼門回廊を整え宮構の美稀に見る八幡宮となったそうです。
清末八幡宮鳥居 清末千房の最後の家並み 行く手に四王司山が見えます
この辺りから家並みも少なくなり、明治時代の明かれんが造りの家が一際目立ちます。清末千房辺りになると家並みはありません。下関方向に四王司山(392m)が見えます。神田川にかかる神田川橋を渡ると王司の町です。この道は国道491号線とクロスします。国道を渡って、王司パークの看板の立つ傍の道に入ります。暫く、国道491号線と山陽本線の間を平行して歩きます。
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