山口市瑠璃光寺 ⇔ 三田尻茶屋町
その3
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定念寺前の萩往還の案内板 定念寺 防府天満宮参道
   定念寺の前を通って
山陽道と合流した萩往還は東に向います。このお寺の前の道は、少しは昔の雰囲気を残す、家もありますが、全体としては現在の街通りと言った感じです。ここから東に265m行くと、防府天満宮の参道、大鳥居の前に来ます。そこから南に右折し、商店街の中を歩きます。

 
  立市・らんかん橋 案内板より
立市は、天満宮の鳥居前町として最も古くから発達した宮市発祥の地であります。参勤交代の制により、萩と三田尻を結ぶ街道が整えられた江戸時代には、三田尻の御船倉、御茶屋へ向かう「萩往還」の道筋にあたり、人の通りが絶えることがないほど、商いなども多く周防第一の通りとして、大変賑やかな町でありました。立市の北角(旧山陽道と接する一の鳥居前)には高札場や大下御物送り番所がおかれていました。150mばかり南に下った。このあたりは「らんかん橋」ともよばれ、迫戸川を渡る橋が昔の面影を今に伝えています。
     
らんかん橋 御茶屋跡 三田尻御舟倉跡
  三田尻御舟倉跡 (立札より転載)
関が原の戦(1600年)後、周防・長門の二カ国に封じ込められた毛利輝元は、参勤交代や海戦、平時の海運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を、現在の下松市に設けました。しかし、萩城との交通の便や地形などを考慮し、慶長16年(1611年)三田尻に移しました。城下町萩と瀬戸内海の港三田尻を結ぶ「萩往還」の終点である三田尻御茶屋(英雲荘)からおよそ500メートルの位置にあります。江戸時代中ごろまでの参勤交代はここから船出していたのです。御舟倉には,藩主の御座船や軍艦が常置されただけでなく、舟の建造や修理が出来る設備も整えていました。又,周辺には水軍の将校や船頭・船大工など関係者の住宅地の町割りが計画的になされ、三田尻は藩主出入りの表玄関にふさわしい軍港・商業港として発展していました。しかし,元禄元年(1688)以降、御船倉周辺の開作(干拓)が次々に完成すると、次第に陸地に囲まれ、一本の水路が海に通じる唯一のものとなりました。明治維新後、御舟倉は廃止となり、現在では大部分が埋め立てられ、通堀とこれに通じる水路の一部にその名残をとどめています。


   三田尻御茶屋 (立札より転載)
三田尻御茶屋は慶応3年(1854年)2代萩藩主毛利綱広によって建設された藩の公館で藩主の参勤交代や領内巡視の際、あるいは公式賓客の旅館にあたえられたものです。現在まで数度の改修が行われ規模や間取りは様々な変遷をたどっていますが、県内に残る御茶屋として唯一、区画の明瞭なものです。幕末の文久3年(1863年)八月には、京都の政変の難を逃れた三条実美ら七卿が相次いで御茶屋に入られ多くの勤皇の志士を交え、国事が談じられたました。昭和14年に毛利家より防府市に寄贈を受け、三田尻塩田をはじめ、産業の振興に尽力し、藩の財政再建に勤めた七代藩主毛利重就の法名にちなんで「英雲荘」と命名された。国指定史跡
  
  御茶屋から船倉跡への道筋
県道184号線の御茶屋の正面を60m南下し左折する。9
0mで交叉点を右折し、道なりに50m南下、左折する。交叉点を2つ過ぎ210mで道なりに右に曲がる。T字路を左折、60mで右折すると池が見える。その池が船倉跡です。
萩往還の終着点 御茶屋 御茶屋から船倉跡への道筋
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