赤間関街道中道筋 
明木→秋吉 No.4
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小野小町の歌碑 国道490号線の分岐点 庚申塚
雲雀峠を下ればひたすら県道を南下します。峠を下った所の二反田で県道32号線は国道490号線と合流します。小野の地区の入り口に「小野の小町」の歌碑があります。地区名の小野と関係があるそうです。絵堂地区の入り口付近に庚申塚があります。この付近のルートと地形が少し不自然な感じがしますので、昔の街道は少し違った所を通っていたのかもしれません。いろいろ探してみましたが、分かりませんでした。結局、国道490号線を歩きました。
分岐点右側へ 整備中の街道(県道241号線) 絵堂付近の地図
絵堂では国道バイパスが出来ましたので、旧道は県道241号線になっています。県道241号線は一部を除き、秋吉台上までは赤間関街道と同じになっています。この道を以前通過したときは街道らしい雰囲気がありましたが、道路の拡幅工事などでその趣は消えています。
大田・絵堂戦役の記念碑 萩政府軍の本陣の正門 何か工事をしています
県道241号線を少し登ると右側に大田・絵堂戦役の記念碑と萩政府軍の本陣の正門があります。そこの案内板には次の様に記されています。
大田・絵堂戦役絵堂の開戦
第一次長州征伐(1884年7月)以来、長州藩は保守派(俗論党)が藩政府の要職に当たっていたので、進歩派(正義党)の人々はことごとく処刑されるか、難を逃れ身を潜めていた。筑前、野村望東尼の平尾山荘に潜伏していた高杉晋作は、12月ついに下関功山寺において挙兵し、山形狂介(有朋)等諸隊もこれに呼応して、萩政府軍と対峙することとなった。明けて慶応元年(1865年)正月6日夜半、諸隊は天宮慎太郎を斥侯司令とし、伊佐から秋吉を通り赤間関街道を進軍。7日未明中村芳乃介・田中敏助の両名が戦書を俗論党粟屋帯刀の本陣(現・柳井氏宅)に投じ、帰隊するや否や1発の砲声と共に奇襲した。作戦は成功し、萩政府軍(俗論党)は明木へ敗退。諸隊はここ絵堂の地が攻守共に大田に転陣した。戦死者 諸隊・3名 萩政府軍・5名


萩政府軍の本陣正門
萩政府軍の本陣となった絵堂・旧柳井邸の門で、元は北方200m先の町筋にあった。平成17年県道改良工事に伴い、柳井宣史氏が美東町へ寄付され、本地に移設した。この門には、本戦役の開戦となる慶応元年(1865年)1月6日未明、諸隊の斥侯隊が政府軍陣営に夜襲をした際、打ち込んだ銃弾の貫通痕が残っている。


さらに登ると周囲の山が崩されて工事をしています。
お地蔵さんは移動するよ 下の峠は大工事中 仮の道路かな
道路の側にあるお地蔵さんは移動されるようです。写真の右の看板に記載されていました。日本歴史の道100選に赤間関街道中道筋のこの付近が選ばれていますが、その面影は全くありません。特に下の峠から右折して入る道は完全に無くなっています。歴史の道100選は返上すべきでしょうね。仕方なく長登まで下りて台山に向かいます。
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